思考というものほど、厄介なものはないと思います。
なぜかというと…
目には見えないものだからです。
そして、同時に自分でも自覚できる部分が曖昧だからです。
そういった曖昧さは時として別の何かと化学変化を起こして、予想もしていなかった発明のような発想が生まれるわけですが、それって「意識的に起こせる」ものではありません。
外山滋比古さんが著書の中で用いていた「セレンディピティ」なのか、「発酵」にあたるのかは分からないですよね。
アイディアが合体してるのか、
偶然発見したものなのか、
知らんまに相性が生まれたのかは。
そもそも発想というものが意識的に、水素分子と酸素分子が合体して水になるのと同じように必然的に生み出せるものであれば、発想そのものに価値がないことになります。
AとBを組み合わせるとCが(必ず)できると断定できるものであれば、同じような組み合わせが何万通りできることになり、そういったものはAIによって容易に思いつかれるからです。
しかし、発想というものがこんなにも尊いものであるのは、
いつの時代にも「まさかそれらが組み合わされるとは」という驚きと発見が繰り返されてきたからのように思います。
意識的に発生させることができない、
目には見えないもの。
そして、突然にやってくるもの。
それが「思考」と呼ばれるものだと思うのです。