先生が生徒に教える。
教わったことをちゃんと「聞いていれば」必ず分かる。
これって、幻想だと思うのです。
聞いたからと言って、理解したとは限らないからです。
理解というのは、本や教科書を読んで書いてある文字を識別することとは別の能力。
書いてある文字は識別できるけれども、内容自体を理解できたか?とは別の話なのです。
日本の国語教育は、基本的に「識別すること」を中心に組み立てられています。
日本語は世界的にも最も難しいと言われる表記体系を使い分けていますので、文字を読めること自体が至難の業。文字が読めれば、あとはなんとかなるだろう、ということです。
教科書に書いてある文章にも、どう読むべきか「正解」がちゃんとあって、
人それぞれの解釈などは許されません。
国語嫌いが増える要因にもなっていると思うのです。
私も国語は大変苦手でしたが、本を日常的に読むようになってから国語というものに抵抗がなくなりました。むしろ、正解がなく、誰からも読み方を強制されない、自分なり理解で、解釈で読んでも良いという読書によって、言葉に対して興味が出てくるようになりました。
しかし、本を読めるからと言って、内容を理解することとは別の話であることを、日々の読書で痛感していきます。
他の人と語らう時に、自分で読んでいたときとは違う解釈や理解があること、読み飛ばしていた箇所に気づくこともあります。
読み方には正解はもちろんありませんが、
どう「情報を抜き取るかどうか」には技術も必要ですし、
ましてや初心者には一度読んだだけで分かるはずがないと思うようになりました。
社会人生活が始まった頃、最初の会社で
いろんな人から仕事を教わりました。
なかには、仕事の流儀やマインドを教えてもらったこともあります。
しかし、当時の私には何も響くことがなかったのです。
「あの頃に言われたアドバイス」の意味が分かるようになるのは、ある程度仕事ができるようになったり、会社というものがどう回っているのかを、理解し始めた時でした。
分かるという言葉は、簡単に使ってしまいがちですが、
実は本当は奥が深いもの。簡単にはその真理にたどりつくことができないものだと、今では思っています。
全くの初心者が、師匠から講義を受けて、
一回で理解する、習得できるわけがないのです。
分かってると思っていても、分かっていないかもしれない。
本当に分かるのは、自分のものになったとき。
習得したときに、山頂から景色を見渡せるかのように、パッと視界が広がるものなのです。