何を選び、何を選ばないのか?
私たちは生きているなかで、本当にいろんなことを決断しています。
朝ご飯に何を食べるか、どんな服を着るか、
息抜きにゲームをする、ドラマを見る…なんてことも。
日々、そんな決断を膨大にこなしていくことで、
日常的に下していく決断が、1年後10年後に影響するなんて
誰も思わないでしょう。……意識してる人以外は。
だからなのか、私たちは日々の小さな決断たちを過小評価してしまう。
私は今、資格勉強にいそしんでいるのですが、
その期間中はとても辛いものです。
辛くて、辛くて。何度もやめてしまいたくなる。
どうして辛くなってしまうのだろう?
辛くならなければ、こんな苦痛を感じないのに…と恨めしくも思ってしまいます。それと同時に、頑張りきれない自分に対して、怠け者だなんて思ってしまうのです。
……そもそも、どうして勉強してるんだっけ?と
ある日、ふと気が抜けた時に思いました。
他の人にそんなことを言えば、「勉強疲れだよ」とか、「現実逃避したいだけでしょ」なんて言われてしまう。
でも、私には、このように抱いた疑問を現実逃避という言葉で、簡単に片付けていいような感情じゃないと思ったのです。
どうして勉強をするのか?
資格勉強じゃなくても、何度か人生の中で感じた人は多いと思います。
その最たる例が、学生時代に経験した受験勉強でしょう。
辛くて、辛くて。逃げてしまいたい。
……ですが、興味のあることに対しては、無限に勉強できたのではないでしょうか?むしろ、勉強とは思わなかったのではないでしょうか?
受験勉強でどこそこの大学に受かりたいと思っても、本当にその大学、高校に行きたいというのもあるでしょうか。
ですが、行きたいという動機と同じくらいに存在するのが、
「他人から評価されたい」という動機です。
自ら進んで研究したり、学んだりすること以外の
「勉強」って、強制のようなものなのです。
誰かの評価を得たいがために、してると言っても過言ではない人も少なくはないと思います。
今回、私が挑んでいる資格勉強でさえも、
将来に活用する気はないけれど、なんとなく勉強してるのだと。
……なんで、勉強してるんだっけ?
と、勉強のつらさから、素朴に思ったことを掘り下げていくことで気づくことができました。
そこで、ふととある本を思い出します。
エッセンシャル思考 最少の時間で成果を最大にするという本です。
気になって買って、何度かパラパラ…と読んではみたのですが、当時の私には必要としている概念ではなかったのでしょう。
でも、今回の資格勉強で「どうして勉強するか」を考えるにあたって、答えを教えてくれるような気がしたのです。答えが出せなくても、糸口になるのではないか、と。
初めの章には、どうしてこの考え方が必要なのか、と主張しようとしていることの大枠を説明してくれます。
読んでいくうちに、気になった概念がありました。
・何かを選ぶとは、何かを捨てること
他にも、本質的なものに集中するとか、これしかないという価値観を大事にするとか、色々書かれているのですが、この概念がエッセンシャル思考に対して本質をついていると思いました。
この本では、エッセンシャル(必要不可欠)なことと、不要なことに分けよということを延々と主張しているのですが、本当に本質的なことが書かれている第4章は15ページほどしかありません。(15章もあるのでどの章でもそのようなものですが)
ですが、この概念を先ほどの「なぜ勉強をするのか?」に当てはめてみると、「ひとつの勉強をすることで、何か捨てているものはないだろうか?」という疑問が生まれることに気がついたのです。
他の資格試験でも、特に難関資格と呼ばれるものは、
合格するまでに何百、何千時間と費やさなければならないものもあります。
ネットでは、それらの資格は「時間の無駄」だとか、「人生がめちゃくちゃになる」とか書かれていることが多い。
合格して、その職業で仕事をしていくのならば必要な投資となりますが、合格しない…あるいは使わない、ただ取るだけならば、知識が無駄に増えていくだけ。完全に無駄になる知識はないと私は思っていますが、何千時間も費やすとなると、1~2年勉強したとしても、日常生活の大部分を切り崩し、犠牲にする必要があるのです。
そこで天秤にかけられるのが、「なぜ勉強するのか?」という問い。
この問題は現実逃避などではなく、エッセンシャル思考を通して自分らしく生きるために必要な問いだったのです。
そして、その勉強が必要だと言うからには、
家族や友との時間、趣味のための楽しみの時間を犠牲にしても価値があるのかどうかを考えなくてはならないのです。
これが、「あのときに必死になって勉強して良かった」と心から思えるのならば良いとは思います。でも、そこまで犠牲にするような対象ではなかった。
私にとって必要なことは何か?を考えた時、
今している勉強じゃないことは分かった。
心のどこかでずっとそう感じていたからこそ、
「どうして勉強しているのだろう?」と感じていたのではないかと思います。
逆に、何を勉強したいのだろうと考えた時。
好きな読書でいろんな知識を得ることだったり、
日常の様々なことを、培った知識を持って分析することだと気づいたのです。
資格試験も、受験勉強も、試験勉強というものには100%の正解があります。
どこかの機関が、とある物事を概ね正しいだろうとされていることが問題に出るのです。そこには、自分で新しいことを発見したり追究する余地などありません。
その分野を徹底的に究めれば、開発したり研究したりする側に行けるかもしれませんが、試験勉強というものは、どこかの機関が決めた「こう答える」という正解を求めるということに過ぎないのです。
もちろん、そうした試験の全てを否定するわけではございません。
趣味で受けた資格試験にも、知らなかったことを知れて良かったと思うことはあります。むしろ、そうした試験も色々受けるのって良いなと思っていたりします。
でも、それは。
思いつめられるほど辛いものでは、あってはならない。
知識を吸収するのは、本来であれば楽しいものであって、わくわくするものでなければ、遠からず止めてしまうものだからです。
ゲームをしてる時に、攻略本を夢中になって読み解くのも、
楽しいことだからこそ、続けられること。
苦痛になっては、「じゃあやめたら?」と他の人は言うでしょう。
でも、試験勉強となるとそう言う人が少なくなるのは、ある種の勉強信仰があるからかもしれません。そして、それはあなたにも私の中にも、静かに存在していて、何かがあるとワッと現れて襲いかかってくる。
何かを選ぶとは、何かを捨てることである。
全てを選ぶことは、短い人生ですから最適な選択とは言えない。
何かを選んだら、何かを犠牲にしているものである。
その犠牲にしているものが、自分にとって大切な人や価値観であるのならば、選ばないという勇気も必要です。
勉強に限らずとも、私たちは日々何かを選択し、何を選択しないかを選択している。
それらに対して自覚的になることが、人生を充実させる一歩なのではないでしょうか。

